土佐神社の歴史
古代からの崇敬
土佐神社は、『日本書紀』や『土佐国風土記』(逸文)にも記述が見られる古社で、古代から祀られてきました。中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬され、高知県を代表する神社です。
長宗我部元親による造営
現在の主要社殿は、戦国大名・長宗我部元親によって造営されました。元親は、旧社殿が本山氏の岡豊城侵攻による兵火で焼失したことを受け、四国平定を祈念して永禄11年(1567年)に再建に着手し、元亀2年(1571年)に完成させました。
山内忠義による楼門・鼓楼の造営
楼門(神光門)と鼓楼は、土佐藩第2代藩主の山内忠義による造営で、これらも国の重要文化財に指定されています。
土佐神社の社名の由来
現在の「土佐神社」という社名は明治時代に改称されたもので、それ以前には次のように表記されていました:
- 土左大神(『日本書紀』、『土佐国風土記』逸文)
- 土左高賀茂大社(『土佐国風土記』逸文)
- 都佐坐神社(『延喜式』神名帳)
- 都佐坐神(『日本三代実録』)
- 高賀茂神(『長寛勘文』)
中世・近世には「高賀茂大明神」と称され、「一宮大明神」とも呼ばれていました。「一宮」の名は、土佐国の一宮であったことに由来し、現在も周辺地名に使用されています。
祭神
土佐神社の祭神は次の2柱です:
味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)
『古事記』では「阿遅鉏高日子根神」、『日本書紀』では「味耜高彦根神」と表記される神で、大国主命と多紀理毘賣命の子とされています。別称を「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とします。
一言主神(ひとことぬしのかみ)
『古事記』では「葛城之一言主大神」、『日本書紀』では「一事主神」と表記される神で、善事も悪事も一言で言い放つ神とされています。
土佐神社の社殿と文化財
社殿の構造と特徴
現在の主要社殿は、長宗我部元親による造営で、1571年に完成しました。本殿・幣殿・拝殿から成り、本殿前に建つ幣殿と拝殿が「十」字形を成す「入蜻蛉(いりとんぼ)」形式で建てられています。
本殿
桁行五間・梁間四間で、屋根は入母屋造で柿葺き。極彩色で彩られています。
幣殿
本殿前に立ち、桁行二間・梁間一間の素木造です。
拝殿
幣殿前に接続し、中央に高屋根部分を持ちます。
楼門と鼓楼
楼門(神光門)
境内入り口に立つ楼門で、寛永8年(1631年)に山内忠義によって造営されました。
鼓楼
拝殿南東に立ち、慶安2年(1649年)に山内忠義によって造営されました。
その他の文化財
- 礫石:土左大神が鎮座地を定める際に投げたと伝えられる石。
- 禊岩:かつての禊の斎場であった岩。
- 御手洗池:かつて雨乞神事が行われた池。
- 斎籠岩:かつて斎籠祭が行われた岩。
重要文化財
土佐神社には以下の重要文化財があります:
- 本殿(附 本殿棟札12枚) - 明治37年(1904年)8月29日指定
- 幣殿及び拝殿 - 明治37年(1904年)8月29日指定
- 鼓楼 - 昭和9年(1934年)1月30日指定
- 楼門 - 昭和57年(1982年)2月16日指定
まとめ
土佐神社は、土佐国一宮として長い歴史を持ち、多くの文化財を有する由緒正しい神社です。戦国時代の長宗我部元親、江戸時代の土佐藩主山内忠義など、多くの歴史上の人物により再建・維持されてきました。歴史と文化が息づくこの神社を訪れ、古代からの信仰の息吹を感じてみてはいかがでしょうか。